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ジョン・ウェスレーと社会的聖化      坂本 誠                      

 
 I.序論 
 ジョン・ウェスレーの神学の中で聖化概念は最も重要なものである。ウェスレー自身もメソジズムの勃興の原因として聖化への情熱が大きな原因だと考えた。ウェスレーは手紙の中で「この教理(全き聖潔)はメソジストと呼ばれる人々に神が宿した偉大なる授与であり、この教理を宣伝する為に神は我々を起こしたもうた」 としている。*1 これまでウェスレー神学においては聖化概念は個人との関連においてのみ考察されてきたように思うが、この論文では彼の社会的聖化の教理的・歴史的背景を述べ、社会的聖化でウェスレーがめざしたものを論述する。又社会的聖化の意義を検証しその現代的役割を述べる。
 
II聖化概念の要約
 彼は聖化を「実体」(Substance)と「状況」(Circumstance)に区分する。「実体」は「我々が死ぬ前に罪から救われる」という聖書的教えを指し、5「状況」は心の浄化を行う為に神が採用する方法を指す。ウェスレーは以下のように語る。「あなたがたすべては死以前にすべての罪から救われる事を信じています。実体に関してはこれで解決しました。しかし状況としては、これは瞬間に起こることでしょうか、次第に過程を経て起こることでしょうか。それは両方において起こります」*2としている通りである。以下に実体と状況を中心に聖化概念を考察していこう。
 1)聖化の実体(Substance)
 「実体」とは聖書の教えである我々が死ぬ以前にすべての罪から救われることと、愛に
おける心の完全さを指す。*3 更にキリスト者の完全の中でも彼は「一面から見れば,これは動機の純粋,全生涯を神に献げることである。・・・(中略)・・ また別の面から見れば,それは心を尽くして神を愛し,自分のように隣り人を愛することである」とする。*4ウェスレーは愛における完全として聖化概念を語る。このように愛という言葉を用いてウェスレーが聖化をとらえていたのは、彼がただ観念ではなく経験としてそれを自分の生き方として信じていた証拠である。同時にウェスレーは宗教を社会的なものとして定義している。「キリストの福音は社会的である事以外のどのような宗教も知らないし社会的聖化以外のどのような聖化も知らない。愛によって働く信仰とはキリスト者の完全の長さ、広さ、深さ、高さである」と語っている。*5 つまり聖化された人間が社会的に人類の更新を目指して生かされていくのである。ここで意味される人類の更新とは神が人間を贖いの過程の中で不可欠の役割を持ち、真の人間性が天においてのみではなくこの世においても実現する積極的な意味を持つものである。人間が神から恵みを受け、愛に生きるものとなって、そこには受動的に神の恵みをいただくだけにとどまらず、積極的に神の意志を実現していく人間像があらわれている。神の愛はすべての者を内包する愛である。どのような人をもこの愛はその中に受容する。それはどのような階級に属する者でも可能な愛である。ウェスレーが子どもを愛し,特に貧しい子ども達をウェスレーが愛したのはここから派生している。キリスト者のつとめは決して自己充足的なもので終わってはならない。金銭を愛することにおいてもし他人へ迷惑をかけ,自分を神の前に傷つけてしまうならば,それこそ,その愛は自己充足的なものになってしまう。そこで終わるのではなく,神の意志の成就という目標にまで至らなければならないのである。彼が時間を管理し,レジャーに注ぐ時間をも神の目的の為に良書の読書にさくように有効な時間帯として用いなければならないという意志を持つ時,その背後には神の意志との一致という目標に向かって生きる愛を中心とした神の意志の実現という大きなテーマが存在する。
 最近ウェスレー研究家の間ではウェスレーを現代的文脈の中で解釈しなおそうと言う動きがあるこれは非常に注目すべき発言である。ウェスレーの聖化はこれまで個人的文脈の中でのみ解釈されてきた。しかしウェスレーの関心は個人のみに留まらなかったのである。聖化された人が愛を実践する人として生きる時に社会的聖化が生まれてくる。この社会的聖化はウェスレーの中では確固たる地位を築いていたのである。そして広がりを持つ聖化の内容であったことが理解できる。
2) 聖化の状況 
 「状況」(Circumstance)とは心を潔める為に神が用いられる方法を指すものとして用いる。聖化は瞬間的なものか、次第に起こるものかという問題である。結論から言えばウェスレーは聖化を瞬間的なものであり、また漸次的なものという両面としてとらえている。「誰でも漸次的な業を推進するものは強く瞬間的な業を強調する」*6 この事はアルダスゲードでの体験を更に検証してみることでより明確になる。アルダスゲートで何が起こったのだろうか。第1回目の回心の時ウェスレーは清い生活の理想像を獲得するという思想を持っており,これを業を通して追い求めていた。これは幼少から受けた彼の影響から見ても決して無理ないことであった。意図の純潔や聖なる生活を追い求めるあまり,それのみが先行して,理想像を獲得する結果として救いがもたらされると考えてきた。特に神秘思想の本を彼が読んだのは,完全に対するあこがれをウェスレーが持っていたことを示している。しかし1738年の回心においてはこれが逆転することが起こるのである。つまりここで言われているのは1725年のウェスレーの第1回目の回心が起こったとされる年から1738年のアルダスゲート街まで聖化を義認の前に起こるものと誤って考えていたのである。ウェスレーは新生や聖化を内側で起こるものとして捉え,聖化を義認の後に起こるものとして捉えて,良き業は結果として義認の後に起こってくるものであることを強調している。アルダスゲート街の体験はアングリカンから影響を受けつつもそこにとどまるだけでなく,それを超えていった1つの決定的な相違点をウェスレ-にもたらしたのだ。ウェスレーは国教会の人々の影響で罪の赦しを地上で体験することが不可能であり終末的事柄と考えていたが,回心後は実現可能であるとし,これをキリスト者の完全と呼んだ。*7これは確かに彼のアメリカへの失意の旅行の後,アルダスゲートの体験以後一番変革した点であった。自分の良き業を基礎に救いを捉えようとした事から,自分の救いの基礎はイエス・キリストの業により,人間の側のメリットを一切排除するようになったという変化がここにはあらわれている。この体験はウェスレーにこれまでになかった積極性をもたらしていく。ウェスレーはそれ以後恵みにあふれて自分を生かして用いている。
2)過程としての聖化
  ウェスレーが聖化を過程としてみていたことは彼の神秘主義との関係において,どの
ような行動をとったかという事と密接に関連している。ランヨンによれば、ウェスレーは2つの神秘主義と戦ったとする。*81つはモラヴィア派の静寂主義者であり、彼らは義認と聖化を同一視し、この世では実現されないものとし、天国においてのみ可能とする神秘主義。もう1つはウィリアム・ローの神秘主義で内なる光を求めるあまりに、恵みの手段や共同体の発想がなくなるもの。この2つに対してウェスレーの聖化思想はモラヴィア派のように天国のみでもなく、ローのように内なる光のみに限定するのでもなく、この地上において可能であり社会的なものであり、行動を伴うとしている。さらに明確な教会共同体の役割を認識して決別している。
 宗教改革からの考えにおいては人の救いの保証は天国との関連で見られてきた。信仰による義認はウェスレーにおいては天国ではなく,むしろ天国は地上にもたらされ,この世で聖化を通して与えられるものなのである。ウェスレーは新生を聖化への門であり入り口であり,その後聖化が起こり,我々の主であるイエス・キリストに近くなっていくと語っている。*9 新生を宗教の玄関とし,聖化を宗教そのものとして見るウェスレーの見解は興味深い。彼の関心が非常に地上的な社会的なものにあり,その後に続いて起こる過程を前提としている根拠になる。
 彼がアルダスゲートの体験以来、義認と聖化を区別して考察している事をみてきた。そして一つの過程として聖化を取り扱っている。このランヨンの言う社会的出来事が個人に起こり、それが社会に波及していくプロセスをウェスレーは漸次的聖化という事で語っているのであり、決して個人的に限定されず、社会改革をも含む幅広い漸次的聖化であることが理解できる。
 
 
III ウェスレーをとりまく状況
  1 社会的状況
 聖化概念を検証していく前に当時の社会状況をここでしばらく考えてみよう。ウェスレーの生きていた時代のイギリスにおいては人口増加,農業革命,産業革命が進んでいた時期であった。人口の急激な増加の結果,生産性の向上がこれらの背景としてあった。特に
農地革命は囲い込み法との関連で新秩序が生み出され,決定的な変革を生み出していく。
 社会的な現象においては,家畜の品種改良、排水,施肥,家畜の品質改良と飼育,道路の建設,農場家屋の改築があった。産業革命の結果、貧富の差が増大し、英国の社会は多くの貧しい人々が底において層をなしいた。マドロンはこの時期のイギリスには貧困と失業の問題があった。そして18世紀の貧困と非雇用は社会的不公平の結果であるとし,その結果ウェスレーが貧しい人々を発見したと結論づける。*10 貧しい人々の増大の原因としては経済的支持が得られず、教区制度の崩壊等があげられる。産業化により絹の機械が導入されており、手工業で生きてきた人には大打撃となった。失業者が増え賃金が低下する。以上の事はウェスレーの生きていた社会的状況を知る一つの手がかりであろう。注目すべきことは英国全体に貧困それ自体が過ちであり、汚点であるという考えが存在していたことであった。このような時代にあってウェスレーは社会に対して、貧しい人々に対してどのような立場をとっていたのだろうか。彼の教理はこれまで一面的に、つまり個人の救い、聖化、体験というテーマのもとでのみしか考えられてこなかった。しかし実際にはウェスレーは自分の生きた社会を視野に入れた福音理解をしているたのではなかったか。それとも彼の視野は個人的な聖化のみに留まっており、それが社会全体までも視野に入っていなかったのだろうか。
 
 2英国教会の状況 
 次に英国教会内の状況はどのような時代であろうか。この時代の英国教会は形式主義と
制度主義への依存があった時代であり、又説教は形式的な説教が語られていた時代だった。
聖職者の間には精神的腐敗があった時代でもあった。多くの国教会員は貧しい人々に無関
心であった。むしろ教区の最大の関心事が,救貧税への負担になりかねない人間を教区外
に閉め出していた。*11確かに17世紀後期になりAnton HorneckやRichard Smithiesによるいくつかの「宗教集会」があったが、それらは高教会-アングリカンに属するものであり、確かに慈善活動をし、貧しい人々にあまり興味を示さない国教会よりはましではあったが、それがどれだけ影響をもたらしたかは明確ではない。牧師は親切で常識的で適度に敬虔な「典型的イングランド人」であり,学識と教養と自由で名だたる国教会員でもあったが貧しい人々への視野はそこにはみられていない。*12
 このような中にあってウェスレーは個人と神との生き生きとした関係を唱導していた。それは野外説教をウェスレーが用いた方法にもあらわれているし、家庭集会や組会制度を適用した彼のやり方にもあらわれている。彼は小グループの大切さを強調し,全体主義から離れた所での個人個人の重要さを追い求めているのである。彼は自分の組織をclass とbandに分ける。そしてこの目的は最も深い関心をお互いに分かち合いできるようにするためであるというのだ。ウェスレーが「平易な言葉で平易な人々に」と語ったのは有名な事である。彼の言葉には当時の英国教会の説教への批判があったのではないだろうか。当時の労働者達が教会の説教に満足しておらず、何か自分の心の中に訴える力強い説教を求めていた。 そのような求めにウェスレーの説教は答えたのである。彼の行く先には多くの人々が出迎えている。彼への歓迎ぶりがわかる。
 
2 ウェスレーの経済理論
  次にウェスレーの経済理論,社会倫理をみていこう。 ウェスレ-はこの命題を特に富の分配において与える事を強調し,貧しい人々の人権を保護するという観点から追及している。
 (1)富に対する3つの規則
 ウェスレーは富に対しても特別な意識を持っていた。アウトラーは著作集の序文で富について以下のように述べている。「ウェスレーの経済理論に対する論争的な警告は生来の美徳に関する反対に一致する。これはアダムスミスの国富論(1776)にも見られる経済論であるが、これに反するウェスレーの考えは富の蓄積が経済的福祉の本当の基礎であるとする考えに対して、すべての余剰蓄積が死すべき罪であるとした」*13 彼はその具体的例として,更に続けて「ウェスレーの弟子達は彼の最初の規則である『正直に出来るだけ得よ』と第2の規則である『注意深く出来るだけ貯えよ』には同意したが、3番目の規則である『必要と便宜以上に持つすべてのものを出来るだけ与えよ。』という規則は必要以上のものを要求していると考えた」としている。*14 1番目の規則は彼がただ単に禁欲のみを強調したのではないことがわかる。彼はトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』を読んで,反論した事がある。それはその本に極端な禁欲主義的印象を受けたからだ。ただ禁欲のみの規則は律法として映ってしまう事をウェスレーは知っていたのだ。2番目の規則においては得る事を生き方として認めた上で,それがアルコール依存症の人の事を配慮して不必要な出費を戒める警告を与えている。「注意深く」とは神から与えられたものを無駄に使ってはならないという思想が現れている。彼の視野には特定の人々が入っていたことがここから理解できる。そしてこの貯える事には目的がある。それが3番目の規則への布石となって与えるという命令が発せられる。この背後にはウェスレーが当時のメソディスト教会の信者に対して彼らが原点を忘れて富んできたことに対する警告があった。人々が富んでいく中で最終的な対処は何かというと、上にあるように、貧しい人々へ与えるという事を語るのである。これは注目すべきコメントである。彼の個人的聖化の概念は厳しすぎる程であったのである。ウェスレーにとっては所有している物全ては神のものであり、富も例外ではないのだ。それをささげるのは当然の行為であった。神から与えられた者のよき管理者として人間は神に召されている。しかし人々の意識との間にはギャップがあった。この個人的聖化の概念が富に対して廻りの者から必要以上とも思える要求に聞こえたのである。最初に彼がメソディズト会を組織して後,共有財産の本質が忘れ去られ,会自体が形骸化していき,初心である人々に施す事が忘れ去られていく。彼はその変化を敏感に感じとっていた。宗教の本質を忘れ去ることに対する警告がここにはある。個人的な聖化は必ずや社会的な関係となって現れてこなければいけない。ここにウェスレーの聖化概念が決して上辺だけのものではなく、個人の魂の奥底から外側に溢れ出して来たものであることが理解できる。
(2)富と信仰の関係
 次に個人的蓄積をウェスレーはどのようにとらえていたかを見ていこう。彼においては個人的蓄積の概念は著しく制限され、富は分配されなければならない。これが使徒言行録2-4章の最初の共同体において見られる現象である。ウェスレーはOn Richesという説教の中で富める者を定義して「自分自身と家族の為に食糧や衣類を十分又はそれ以上に持っている者」とする。*15 人は必要以上に物を所有するのではなくそれは還元されなければならない。又山上の説教の講解で「わずかの金や銀の為に魂を売るのは死と地獄に価する」としている。*16 この背後には平常な経済活動においてさえ,我々が悪化させた貧しい人々の被害に責任があるという見方がウェスレーの中にはあることを示している。確かに彼の「山上の説教」を見ると財産を窃盗と捉え,消費を貧しい人の血に対してとがめられるべきものであるとするのはウェスレーの人を財産の管理人として見る見解から言えば彼が健全でない消費に対して怒りをもっていたことを意味する。*17 更に遺産も自分の家族を養うのに十分なだけ受取り、後は施すことを紹介している。*18ここから富と福音の関係を知ることができる。この厳しい富理解から我々が知るのは,福音の概念と富の概念はウェスレーにおいては相いれないものであるという事である。金銭を愛することは福音からはずれること,信仰と矛盾するのである。更に信仰の破壊につながるのである。福音の最大の敵は富めるという事であったことが解る。*19 福音の概念は、個人的範疇の中では決して終わっていない。救われた者は富を管理し、人々に積極的に与えていくのである。ウェスレーは霊的キリスト教(Spiritual Christianity)という説教の中で「悪を為すことをやめだたけではキリストを喜ばすことはできない。私の父が自分の内で働いているので私も働く。私の主は良き業を為されたので私もキリストの道を歩む」と語っている。*20 与える事は彼にとっては正義である。これを無視するような個人,社会的行動範疇は不正義になる。ここに福音は正義のメッセージとして人々に伝えられるのだ。福音に生きることは貧しい人々の人権を守る為に生きるという積極的倫理がここにはある。これぞまさに福音的経済学というウェスレーの倫理観を見る事ができる。*21  
 
(3)当時の経済概念との相違
 これまでの見解は当時を支配していた一般的な経済概念からウェスレーを隔離するものである。マドロンはロックとの関係を紹介する。ロックが財産を労働者の固有の権利として認めるのに対してウェスレーにとっては財産の権利は神にのみ属し、人は所有者ではなく、財産の管理者であるとする。*22 これは前述した通りである。更に仕事をするのにこの世の霊においてするのかイエス・キリストの霊によるのかを問うとしている。イエス・キリストの霊はウェスレーによれば他者との関わりをもたらすものである。この世の霊との間の二律背反の概念を基に、前述の富者の理解も合わせて、カルヴァン主義的倫理への1つの離別がここに見られる。彼は貧困の原因として裕福な人々の心の頑なさと無視が貧困の原因であるとし,特に貧しい人々が怠慢であるから貧困なのだという意見に反対したのである。その結果彼の心の中に愛による倫理が出てきた。すべてを尽くして神を愛する事により,社会倫理を確立したのである。
 ウェスレーは富が教会を堕落させる原因である事を知っていた。コンスタンチヌスがキリスト教にもたらしたものは平和であったが,その平和は富をもたらし教会を堕落させたのだと語っている。*23 富を肯定する考えから真のキリスト教である為には決別する必要があるのである。富を肯定する事は富を愛する事をうみだしていく。そして人間に様々な悪影響を及ぼしていく。
 現代においてもこの積極的倫理には非常に教えられるものがある。この概念は最近「貧しい者への優先的選択」という言葉においてみられる。これを見るとウェスレーが貧しい人々に与えたことは決して慈善事業ではなかった事だということが解る。むしろそれは正義から来たものであったのである。ウェスレーの背後には福音的経済学という倫理観が確立されており、それに乗っ取って彼は貧しい者への優先的選択をしていくのである。現代においてもイエス・キリストの愛は「普遍な愛」というよりは、抑圧され、搾取され、虐げられている人への「偏愛」という愛ではなかったかという事が議論されている。ウェスレーの行動の背後にはこのような議論に通じるようなものがあるのではないだろうか。又近年の日本の消費体系がアジアへと還元されなければならないことが叫ばれている。我々がウェスレーに学ばされることは多い。福音を正義のメッセージとして捉えたウェスレーの卓見がここにある。
  
 3 社会システム自体の聖化
  次に社会システムを彼がどのように見えていたかを考えたい。ウェスレーのめざしていたものが社会的聖化であるとすれば,彼が社会自体をどのように見るかは重要なポイントになってくるからである。この事を理解する上で必要なのは彼の人間理解である。ウェスレーの社会正義、社会悪との戦いの背後には彼の人間の本性理解があることを忘れてはならない。筆者が前項で記したように,ウェスレーの人間理解は,人はアダムの原罪により汚れている存在であった。ウェスレーは人間がアダムの原罪により本性的に堕落しているとし、又その結果神の律法を侵犯しており,元来欲望や野心や混乱した頭脳しか持たない人間が造る社会は悪ある社会だと考える。それが戦争や階級による差別,無差別な開発、他の社会問題を引き起こす。抑圧されている人々もそのようなシステムの犠牲者なのである。罪の結果、政府も秩序を保つ為に明白な命令を持っていなければならない。社会悪は人間の本性の罪深さと関連しているのである。この特徴は見てもわかるように罪概念が個人のみにかかわるのではなくて、社会的にも密接に関連していることがわかる。個人が罪に犯されている社会に問題があるのである。このような罪理解は興味深いものがある。そのような罪深い社会は罪に陥っている人間が聖化されるのと同様に聖化されなければならない。確かにウェスレーの出発点は個人的なものであった。個人が義とされ聖化されていく過程をウェスレーはとらえている。しかしウェスレーにとって義とされるのは個人だけではなく、システム自体も義とされる。ウェスレーによれば普遍的に人間は罪の中に陥っているのであるが、その罪は根こそぎ引き抜かれて無くなるのである。同じことが社会的にも当てはまる。社会や制度も神の意志と一致するように義とされ変容されるという事ができる。ここにウェスレーのめざした社会的聖化概念がある。罪ある人間が形作る社会の帰結はウェスレーにとっては決して理想的な社会ではなかった。聖化された者が,個人的な範疇に留まるのではなくて,一生を通して社会的聖化をめざして行動していく。それを彼は聖化を瞬間と漸次的とに分けて語っているのだ。
 それでは彼にとっての理想の共同体はどのようなものであったのだろうか。それは言うまでもなく使徒言行録の初代教会であった。それをウェスレーはいろんなところで語っている。*24 彼はこの教会の姿を念頭におきながら共有概念に生きたのである。現代においてはこの共有概念は希薄となり、近代主義以降、全体性よりも個別性が重視されてきている。聖化において主の恵みを知ったものが新しい社会をつくりあげていくという姿をウェスレーは頭の中に明確に描いていたのである。その証拠として彼は組会を形成していく。この組会は彼の貧しい人々との接点であったように思う。それは貧しい人々を力づけ,基本の共同体として教会に欠けていたものを補ったものであった。この彼の牧会方法は非常に巧みであり学ばされることが多い。
 ウェスレーは「世界が自分の教区である」と言っていた事は有名である。確かにこの「世界」は地理的な世界をも意味したに違いない。彼は長い間旅をして出来るだけ福音を伝えようと奔走する。彼の旅した距離は当時の常識を陵駕している。説教は講壇においてしか語らないと言われてきた英国教会の形式を彼は見事に打ち壊し,野外説教をしていく。しかしこの背後には彼が生きていた当時の社会的問題がウェスレーの視野の中に含まれていた。教会の中で人をただ待つだけではなく,外側に人々を求めていく積極的姿勢が彼の中にはあったのではないだろうか。その事を考えると彼の言っていた「世界」は,ただ単に教会の中だけにとどまる「教区」を意味したのではなく,人々が矛盾の中で抑圧され,貧しさに喘いでいる所であったのである。そのような現場に出て行って,自分の組織を様々に区分しながら牧会しているのである。ここに社会システム自体を念頭においての彼の牧会が起こったのである。
  当時の教会はどうであったかを考察しよう。「ウォーンが紹介している1773年のある教会の見取り図は、教会内の座席とその位置が村人の社会階層によってはっきりと区別されていたことを示されている。地主は、牧師の説教壇の近くの会衆全体が見渡せる位置に座を占めており、貧民たちの座席はこれに対して説教台から最も遠い北側と西側の端に男女別に作られている」32 これは教会の中にも差別があった事を我々に教えてくれる。ウェスレーのうみだした野外説教はかなりのインパクトをもって歓迎されたという理由がわかり、彼が日記等で群衆の様子を描いているその文章と見事に一致するのではないか。
 それではメソディストは一体どのような階級に多く受け入れられていたのであろうか。結論を言うと「きわめて概括的にいえば、19世紀の前半までにメソディズムを受容した人々は、商業や製造業さらに専門職に携わる裕福な人々の下位、各種の非熟練職種に就く人々の上位に位置しており、全体として彼らは下層中産階級に属していたと考えられる。その社会層の大部分は依然として下層中産階級に属しており、全体として彼らが一様に急速な上昇的な社会移動をとげたと考えることはできないのである。また、かかる社会層の均質性は、メソディズムがこうした社会層の準拠集団であったことを示唆するものといえよう」33 としている。又1777年の6月18日付けの日誌の中で、ノッティンガムのメソディズト会の大部分が靴下製造に従事している者であることを示しているとも言われる。34 このようなメソディズム運動は資本主義の倫理感の中にとけ込みそれを超越していこうとした労働運動のあらわれではないだろうか。アダム・スミス以来容認されてきたカルヴァンの神学にたったこのような経済概念と教会の中にひそむ矛盾をもう一度ウェスレーは彼なりに批判しているのだ。そしてもう一度貧しい人々の社会へと目を向けようとしている彼の姿を見つめることができる。ウェスレーが社会の矛盾に関して黙していたとは筆者には考えられない。彼の聖化概念の背後にはこのような社会システム自体の矛盾があったのである。 
  
 
 4ウェスレーの社会活動
 ウェスレーの社会的関わりは多岐にわたっている。今日このようなウェスレーの社会活動の多岐にわたることは今日の我々の教会の社会活動との接点としても興味深いものがある。奴隷制に反対したことにおいては黒人神学とのつながりが考えられる。ウェスレーが女性信徒に病人の訪問を許可したのは当時としては非常に画期的であった。これはウェスレーとフェミニズムとの関連で有効な特徴である。ウェスレーが貧しい人々の解放を目指したのも、南アメリカの解放神学と関係づけることができる。ウェスレーはどのような具体的な社会的聖化を目指していたのであろうか。ウェスレーの実生活からの活動例をあげながら彼のめざしていたものを考察したい。
 まず奴隷制に反対した活動をみていこう。彼の奴隷たちとの最初のコンタクトは1736年7月に彼がサウスキャロライナに旅行した時が最初らしい。35彼はまた“Thoughts Upon Slavery” という本を出版している。この本で奴隷制の歴史を解説した後,クリスチャンがアフリカに到来した後,奴隷制が始まったとし反対する。特に正義の観点から奴隷制に反対する。36 奴隷制は個人の自由を奪うだけでなく,富と権力を生み出す。そのようは富と権力は徹底的に排除されなければいけない。その証拠としては彼のウィリアムウィルバーフォースに対する手紙から伺い知る事が出来る。37 彼は1791年2月24日の日記でアフリカ人の元奴隷のGustavus VasaやOlandah Ezuianoの辛らつな伝記を読んでいる。38 この手紙にはGustavus Vasaの伝記を読んで奴隷制度がいかに間違ったものであるかを語り,この奴隷制度が地球上から消え去ることを願い,特に肌の色によって黒人が白人に差別されるのに猛烈な勢いで反論している。彼が奴隷制度自体にも徹底的に反対するのは自由の剥奪という理由においてであり、ただ単に自分達は財産として奴隷を受け取ったという言い訳をする人にも逃れ道を残さない。黒人の人権を奪う事に憤りを覚えている。
 更に彼は貧しい人々を訪問している。又貧しい人々の代わりになって募金を募っている。更にそれを組織的にも進行させている。例えば財政的に補助する貸付制度を設立し、無利子で貧しい人々が借りれるようにしている。又彼自身も先頭に立って病院を経営している。彼は『Primitive Physick』という本を出版している。これも彼が自ら貧しい人々を診察する為であった。又著作に関して出版社とかけあったりして、できるだけ自分の本が安く売られるように交渉する。それも貧しい人々が自分の本を読む事ができるようにという配慮であった。それは彼がクリスチャンライブラリーを創設した事にも表れている。これは説教者や会衆の神学的教育に役立つようにしたものであった。貧しい人々は本を購入できないので借りる事ができるようにという配慮からの創設であった。ここには貧しい人々の人権を保護しようというウェスレーの強い意志が現れている。彼らの立場に立ってウェスレーは行動しているのだ。
 更にアルコール醸造に反対し、農家の占有に反対する。これも一般の農家の経営が危うくならない為であった。貧しい人への関心は多くある中の1つの規範ではなくて、一番大切な規範であったのである。39 更に職業を斡旋するシステムそのものをも組織した。
更に彼は戦争に反対する。又植民主義がいかに害をもたらすものであるかを訴えている。特にキリスト教徒が植民政策を推進した事を痛烈に批判する。これだけの活動を展開しているのは彼の個人的な聖化概念を基にしているからであるが、社会的な広がりも視野において社会改革をしているからではないか。この急進さは彼の信念からきているのであるが、これは彼の伝統的な立場に立ちつつ、良いものを実践する側面を表している。
  メソディストが日曜学校の果たした役割も決して忘れてはならないことである。特にイギリスにおいて彼らは貧しい子供達が教会で教育を受けることができるような役割も担っていたことは事実である。ロバートレイクスが日曜学校の創設者と言われているが、彼を助けたのはメソディストの女性であったことも言われている。ウェスレーは子供達の教育において究極的には宗教教育を受けることによりイギリスの人々の心の一新をすることを望んでいたのである。そこで彼は貧しい人々の子供達の為に学校を買い取り、何とか教育をできるようにしている。40
 このようにウェスレーの社会活動は多岐にわたっている。このような社会活動は当時の人々にどのように受け取られていたのであろうか。本当の意味で彼の活動は社会改革につながるものだったのだろうか。以下考察していきたい。
 
 V.社会的聖化の意義と検証 -個人的範疇か社会変革か-
1.ウェスレーの矛盾する2つの態度
  この事を検証する前に少し唐突であるがウェスレーの習慣を紹介したい。ウェスレーが茶器の収集家であったという話しがある。ウェスレーは紅茶が非常に好きで、中毒になったらしい。そしてついに紅茶を飲まない決意をして、紅茶に使う費用を貧しい人々に献げることをロンドン協会の会員に語った。手紙の中で彼は自分はかなり紅茶を飲んできたが体に麻痺があるとする。クリームや砂糖を入れて飲んでも結果は同じであった。彼は「聖書と理性の力に従ってただちにティを断った。そして10日以内に30ポンドを蓄積し、その年の終わりまでに250人の貧しい人々が救われた。」と手紙に書いてある。41 更に彼は同じ手紙で「もし彼らが紅茶の代わりにイングランドのハーブを使ったら(それは全くただのようなものであるか、ただに等しい)、同じパンやバターやミルクと共に彼らはお茶の代価を貯えることにおいて彼らは自分の痛みをやわらげ、彼らの貧困もある程度やわらげることができるのではないか」と書いている。42
 このようなウェスレーであったが晩年にはティの愛好家に戻り、陶器王ジョサイア・ウェジウッドが特別に彼のために作ったティ・ポットで、彼みずからみんなにティをサービスしたらしい。43 ウェスレーがアルコール醸造には反対していたが,アルコールそれ自体には何の批判も行っていないのに、紅茶に対する禁欲を語っているのは興味深い。その当時茶は高価であった。それがウェスレーに自己矛盾を起こしており,それを修正しようとしているウェスレーに出会う。貧しい人々への視点を常に保ちつつ、高価な陶器に御茶をいれてサービスする彼の立場はどちらかと言えば貴族主義的であり、そこから貧しい人々への関心を持って活動していたということができるのだろうか。そこに彼の不徹底があるのだろうか。
 彼は1731年11月17日づけの手紙の中で以下のように語る。「彼は自分の髪をかなり長くのばすのは、貧しい人へ与えるお金を貯える為である」44 一方で高価な茶器を愛している姿と髪を切ることを渋るほどのウェスレーの持つ二つの側面はどのように彼の中で矛盾なく存在したのであろうか。
 更にウェスレーはジョージアから帰ってメソディスト教会が大きくなるにつれてお金がかかるようになることを心配していた。そして批評家からお金についての批評を受ける。彼はドーエンス氏への手紙の中で以下のように語る。「私は道の泥を愛さないのと同様にお金を愛さない。そして私は生活の単純な都合上、食糧や衣類に必要である以上のお金は持たない」45 彼がお金の使用に非常に慎重であったことが理解できる。更に彼は語る。「もしあなたが慰めることができないなら、貧しい人々の為に悲しむな。何よりもやさしい言葉をかけよ。うさんくさそうに眺めたり、厳しい言葉をかけるな。何も持たずに帰すことになっても彼らがいつでも入ってこれるようにせよ。貧しい人々と同じ立場に自分を置き、神があなたを取り扱うように彼らを取り扱え」46 ここにもウェスレーの人々への共感が表現されている。
 彼のこのような姿勢が人々にどのように映ったのだろうか。彼の中に矛盾があると言われても仕方がないではないか。これまで筆者はウェスレーの社会的聖化を肯定的にみてきた。しかしもう1度彼の試みが成功しているのかを検討する必要があると考える。その事を検討する前にウェスレーの社会活動が人々にどのように映ったのかを次に見ていこう。   
2.ウェスレーへの評価
 まずウェスレーに対する厳しい見方を紹介したい。歴史家から見た見方をまず紹介しよう。トレヴェリアンはウェスレーが彼の父親が支援し援護した「団体」に似たものを国教会内部に作ろうとしたにすぎなかったとし,47 その理由としてその当時を広教主義と下層民の間のウェスレーの時代,そして博愛主義的な運動と感情が勃興した時代として描写している。48 ウェスレーの働きはそのような博愛主義の1つであり,社会的聖化のようなものではなかったのか。流行の一部としてのみの価値しかないのだろうか。全般的にこのような人道主義が隆盛だったのは,慈善学校等や教会学校の数の多さにも現れてきている。トレヴェリアンはこれらの教育が彼らの今ある境遇に従順になるような教育しか与えていなかったとう批判をその著書でなしているのは興味深い。49 そこにおいてしたままで,個人的変革を福音において行い,社会矛盾の中で従順に生きる人間を生み出すことになり,社会の矛盾や社会のシステム自体を変革するという思想からはほど遠くなる。
 次にウェスレー研究家達はどうか。まずRupert E・DAVIESは「ウェスレーは社会的聖化以外の聖化は知らないと語るが、それを社会変革にまで及ぶ社会聖化ととってはならない。ウェスレーの清さは信徒の仲間内での個人的関係における狭義の聖化である。・・しかし社会秩序にまでは至らない聖化ではあるが、現存する秩序の中での聖化ではある」50とし,彼が個人に出発点を置いているので,それは十分に社会変革までは至らないと結論を出している。これはウェスレーのめざしたいたものは既存の秩序の中のみの変化をめざしており,それが社会的聖化という社会全体の改革からはほど遠いという考え方である。
 更にボニーノも以下のように語る。「ウェスレーは神学と敬虔さの歴史のかなりの部分を読んだ。しかし彼の神学的観察はむしろ堅固な学術的範疇や宗教改革後の論理優先の神学を残している。彼の思考はより敬虔主義の様相の上で動く。最終的に彼の神学は福音的な宗教性の救済論的集中によって占領されている。これらの限界は歪んだ結果をウェスレーの神学の様々な箇所でもたらしている」51とし,彼が個人的範疇から抜け切れていないことを示す。これはウェスレーの思考が現実の様々な状況よりもむしろ存在論的に考えられた思考内での変化が優先しており,社会改革よりも福音の伝達というものに集中しているという批判である。自分の生き方の中で閉じてしまっており,それが外側に至っていないという批判である。
 ウェスレーにとってはこれらの2人の学者が言うように唯一の基礎は聖書からきている。彼は自分を一書の人としているのは有名である。彼は聖書に自分の判断基準を照らし合わせながら生活している。しかし彼の聖書釈義は十分だったのだろうか。彼の中でテキストとコンテキストはどのようにかかわっていたのであろうか。ウェスレーはどちらかと言えば聖書を単純に解釈しすぎていた。更に十分に社会的コンテキストから聖書を解釈するよりもむしろ聖書そのものから個人主義的に解釈されている傾向を否めない。それはウェスレーの見解が政治的発言よりは経済学的発言に終始しているところがあることからもわかる。当時の社会と教会の関係にウェスレーの与えた影響は確かに大きかった。当時の教会が為し得なかった事をウェスレーを中心とする運動は補っている。しかしその活動はどちらかと言えば個人主義的な意味での変革が優先し,主体的な個人の聖化より出発したものが愛という形で外側に現れてきたものであり,社会分析等においてはまだまだ不十分な議論であったのではないか。個人の行動を戒める厳しい倫理が逆に律法となって人々の目に映ったのではないか。どうして英国教会の信徒からのメソディスト教会への転向は少なかったのだろうかを考えてみると,ウェスレーはカルヴァン主義者と戦っており,1番ウェスレーに対して攻撃したのが英国教会内のカルヴァン主義者達であることを加味しても,ウェスレーのめざして生き方が説得力を欠いていたのではないかという疑問は残る。
 以上彼への疑問点を持った人々の意見を考察してきたが,次にウェスレーへの積極的評価をみていこう。ウェスレーの社会倫理は今日我々が失った最初の聖書的な規範を持ち合わせているように筆者の目には映る。特に貯えるだけではなく分かち与える事に最大の焦点を置いたウェスレーの生き方には力強さがある。ウェスレーの貢献は貧しい人々に対する良識を変えた事にある。信仰と業を融合させた。愛と理性を調和させた。個人と社会との関係を改革においてはっきりさせ,個人の責任を理解させた。プラクシスと理論を統合している点もあげられる。52 ウェスレーが統合的であるのは彼が英国教会の影響を受けている事を示す。更にクラッグは著書の中で「啓蒙主義の時代が始まり,懐疑主義が広まる中で,反面ウェスレーは宗教が単に知的仮説だという仮定を覆し,信仰が神の力であり,人間の生活を変容させることができることを示した。」とする。53 ウェスレーの社会活動を見ても理解できるようにその活動範囲は広い。教会が力を失っている中で,既存の教会を補う形で,信仰者のあるべき姿を彼は我々に示してくれている。更に福音がどれくらい力を持っているかという事に対して,特に貧しい人々の声が繁栄されない中で,貧しい人々と共に生き,それを教会という基盤を元に小グループを利用しながら組織的に活動したウェスレーの行動は評価できる。人々はウェスレーの活動によって新しい教会像を提示されたのだ。この新しい教会像は英国教会の教会像とぶつかり,ウェスレーの牧会の中で厳しい迫害にも似た攻撃を受けるのである。しかしウェスレーは勇気を持って貧しい人々に向かっていくのであり,その姿勢には敬服する。ウェスレーの貢献は教会にとっては財産である。
 このように評価は2つに分かれるのであるが,次にウェスレーの政治姿勢を検討しよう。というのもウェスレーの政治姿勢が社会的聖化概念と矛盾するような態度に思えるからである。 
  
3.ウェスレーの政治姿勢
 ウェスレーは政治的には保守主義者だった。彼はトーリー派として保守派に属し、君主を擁護する立場に廻っている。54この立場はアメリカの移住者が国から独立をもたらす事を反対した立場である。奴隷制には反対しながらも政治的立場としては保守派にとどまったウェスレーには矛盾はなかったのであろうか。ウェスレ-は生涯自分としては国教会員であろうとした。確かに野外説教等では英国教会を逸脱しているように見えるかもしれないが,彼の意志としては国教会から出ることは本意ではなかった。ウェスレ-はこの事をアピ-ルの中で語っている。特に彼の論点はメソディストの教えが英国教会の祈祷書,39ケ条,説教と異ならない事を語っている。特に19条とメソディスト教会が一致している事を強調している。55 ウェスレ-が信奉した英国教会の説教の中にはこの王政に対する忠誠が書かれてある。ウェスレ-はこの忠誠の態度を生涯持ち続けているのだ。
 更に君主を擁護するもう1つの理由があった。それは王がメソディストを守ってくれるかどうかという事である。ジュニングスはウェスレーにとっては王がメソディストを暴動の手から守ることで王を保護する理由は十分だったとしている。56 確かに野外説教をしている場所で彼は様々な攻撃を受けている。それは彼の日記の中にかなりでてくる。57 これらの攻撃はかなり厳しいものであったのでそれらを鎮めるには,メソディストが英国教会と一致しており,メソディスト教会も王の庇護の元にある権利を有することをウェスレ-は強調する。彼は伝道していて人々に去るように言われた時,「ジョ-ジ王が私にここを去れというのでなければシャフツベリ-を去るように命じられることはできない」と語る。58
 更に貧しい人々を助ける為には何らかの政府介入が必要であった。政府介入により価格を低下させることもできたであろう。王には警護力と課税に対する貧しい人々への貢献を期待していたことは間違いない。王が保護者となりこれらの群衆から守ってくれる事を彼は期待しているのだ。
 このようなウェスレーはアメリカの独立に反対した立場をとった。59 貧しい人々との接点を保ちつつ,独立運動に反対し,君主制を擁護する事は矛盾ではないのか。確かにウェスレーは独立運動それ自体を否定したのではない。むしろ政治を改革する事には,アメリカに住む人々の人権という立場から肯定的ですらある。しかし独立運動が暴動という事に発展するとそれは既存の政府の崩壊を意味する。これにウェスレーは反対したのだ。60 逆に言えば,君主制を守り抜く為に独立運動に反対する人々を彼は裏切ることになるのではないか。これらの事情を考慮したとしてもウェスレーは君主制を最後まで支持する。この姿勢は彼の中に染み込んでいると言っても過言ではない。ジェニングスはこれを評してウェスレーは君主が「宗教の自由に友好的だ」という体験をもっており,英国教会の説教の中で君主制支持にまわらせるのであり,又アメリカの主張は自由や正義とは関係ない特別な願いであり,それに対して反対できるとしたとし,彼の中では矛盾はなかったと結論づける。又,王が彼の主題の中で人々を宗教や市民の自由さを擁護するものとして活躍したことを強調し、君主制は民主主義よりも自由と権利を擁護するのに有効だと考えるようになったことを明らかにしながら、君主制を擁護するものとする。61 もしこれが事実であるとしたら,ウェスレーは政治や独立運動の分野と信仰の分野である個人的な分野を使いわけている。彼の発言は経済的発言に片寄り、政治的な本質的な部分においてはまだ立場が経済的部分の発言のようには鮮明でないように映るのだが、これは筆者の思い過ごしだろうか。彼の社会活動は日曜学校が人々の教育において既存の体制に従順であるように教育したように,体制批判や転換に至らない救いの概念の展開ではないかという疑問が起こってくる。筆者はウェスレーの中において混乱があるように思う。民主主義自体をウェスレーはあまり評価していないが,彼は民主主義そのものを過小評価しているように感じる。
  
 4.ウェスレーの聖化概念の整理と総轄  
 結論を出す前に,もう一度ウェスレーの聖化概念を整理しよう。ウェスレーはアメリカに行く前に日記の中で「私の主な動機は他の動機はこの事に従属するのではあるが、自分自身の魂を救うという希望からである」と書く。62 この言葉を残して彼はジョージアに旅立つ。そして失意の内に帰国して1738年にアルダスゲートの体験をする。彼の内で初めてこれまでの人間主体の救いの獲得から,神の恵みに基づいた救いへと大転換が起こる。彼の内には壮大な愛の聖化論が生まれ,個人の中だけではなくて,自然の中にあるものをも視野に入れられ,創造論が展開されていく。この体験によって彼の立場は義認と聖化に関する限り鮮明になる。彼の個人主義的な聖化と社会的聖化の接点が存在していることを学んだ。問題はその個人的聖化と社会的聖化の関係がどのようなものであるかである。ウェスレー自身の声を聞こう。彼はなぜ奴隷制度に反対するかについて,1737年の手紙の中で一人の少年が奴隷制度により教会に行けなくなった事を聞き,奴隷制度反対がこの福音を伝えることにあり,奴隷制度は福音伝達の手段を無くすという理由で反対している。63 ここには動機がどちらかと言えば一人の魂を追い求める伝道者としてのウェスレーの姿が見える。それと同時にこの背後にはどのような人でも神によって創造され恵みの中に生きている存在であり,その人権は守られるべきというウェスレーの正義観があらわれている。社会的不正義によって福音を分かち合うチャンスを逃される事は彼は耐えられなかった。筆者はウェスレーの福音理解には、人間の本性とそれに起因する社会の罪深さが認識されているのと同時に,それを克服する恵みの効力の素晴らしさが表現されていると考える。そこには新しい未来への希望がある。彼がメソディストにもたらした霊的覚醒である聖化の思想は,社会的矛盾に傷つけられ,人間性を損なわれていた人々に再び人間性の尊厳を与え,それが当時の人々の覚醒運動となって現れたのだ。内面的な覚醒抜きの社会変革は単なる上辺だけの改革になってしまう。個人変革は社会変革の前提条件と言って良い。64 ウェスレーのメッセージは人の義認とその後に続く聖化において実現される変容なのである。ウェスレーは個人変革から出発し社会変革をしていく過程を聖化と呼びそれを宗教そのものだとした。    
 しかしこの順序は不可逆である。この世の時間の中で生じる社会的出来事から出発する事はウェスレーにとってはまだ準備ができておらず,常に福音から出発し.その社会的状況に適応しようとする方向性がある。そこに様々な批判ができてきるように考える。それが狭義と言われようが,社会変革につながらないと言われようが,ウェスレーにとってはこの順序は不可逆なのである。65 しかしそれはやはり個人的範疇に基礎を置く変容であった。それは社会活動ではあっても社会変革にまでは至っていない。彼は福音を正義と人権というレベルで社会に関連づけ行動しているが,それは単発的なもので終わっている。そういう意味において社会聖化は狭義な社会聖化にとどまっていると言って良い。むしろ清水氏が言うように時間の秩序である現実理解において出発したならばより広い社会聖化を展開できたのではないだろうか。前述の彼の保守的な政治姿勢も,更に茶に対する執着ももし彼が現実という時間的状況から出発していたならば徹底した姿勢を保つことができたと考える。
 ウェスレーは自分のメソディズト教会の勃興の原因としてオックスフォード大学でのホーリークラブの目的である「古典の研究、新約聖書の研究、敬虔の研鑽」は,アルダスゲート街での体験の後も一生ウェスレーの中に生き続けた。ウェスレーはそれを生涯実践しながら聖化概念に生きた人だった。しかし彼のめざした社会的聖化は「福音的聖化」であり,彼の経済学は「福音的経済学」なのである。最近の福音派にみられるように,安易なリヴァイヴァル理解はウェスレーにはなかった。祈れば与えられるような単純なものではない。ウェスレーにおいては個人の変容が社会変容の基礎となっている。逆に福音の本質が忘れさられて,社会活動が優先して福音の本質が忘れ去られている社会変革も見られなかった。しかし筆者は敢えて言いたいのだが,そこにウェスレーの限界と同時に魅力が存在すると言える。我々は時代人として福音を提示しながら,社会変容をめざす,バランスのとれたウェスレーに教えられると同時に現代神学の立場からすればいささか古い正統派としてのウェスレーを見るのである。
                             
 VI.結論
  これまで考察してきた事柄は現代的コンテキストの中でどのような価値を持っているだろうか。                                                                   
 近世から現代に至るまで我々の社会においては常に相反する2つのものがあった。信仰と業,自然と恵み,律法と福音等である。ここで注目したいのが、彼は宗教改革以来の信仰と救われる為の人間の行為の対立を先行する恵みから出発し,聖化の完成としてのキリスト者の完全という教理である。彼はこの教理において信仰が救われる為の人間の行為から切り離されずに、信仰がよき業に新しい意味を与えるという統合を生み出した。信仰と業の二律背反の克服、自然と恩寵の克服がここにあるのである。彼の果たした役割は大きい。彼の社会、自然への関心は決して偶然に出てきたものではないことが現れている。先行する恵みという概念は必然的に社会的聖化という思想を提供していたのである。しかしウェスレーの働きは結果的には個人的範疇を基礎にして出発するものであり,社会的聖化との関連におていは,その順序は決して逆転できないことを学んだ。その中にあって筆者は,ウェスレーが社会的文脈から出発することができれば,更にウェスレーの社会的聖化の概念は幅広いものになっていったと結論づけた。
 教会と社会との関係においてもウェスレーは我々に示唆を与えてくれる。現代の教会はウェスレーの目指した教会の姿をどれだけ実現しているだろうか。近代主義的生き方になってきてしまい、共有概念は教会においても希薄なものになり、救いを個人にのみ限定し、社会と切り離し、二律背反のみをきわだたせているのではないだろうか。このように教会は社会から疎外されており,その原因を教会そのものがうみだしてしまっている。そのような教会にとってウェスレーの目指した教会像は福音を基にした社会責任という事において貴重な財産となるのである。彼は教会という立場を鮮明に表現する。彼の働きは教会そのものを否定するものではなかった。社会的事柄のみに専念して教会の本質である福音の力さえ失ってしまう教会に警笛を鳴らしている。そして牧会の方法は現代においての大きな遺産である。彼の大胆なやり方は既存の教会のやり方になかった現場との接点を持ち合わせている。小グループを教会の1部としてダイナミックに教会の活動を展開していくウェスレーの生き方は魅力的である。
 更に現代において注目したいのはウェスレーの働きと霊性という事である。彼は自分の社会的聖化を福音的経済学として我々に提示してくれている。現在のキリスト教会のように霊性の雲間に隠れて自分の教会を社会的関わりから除外しようとしている教会に対する警告になる。ウェスレーはこの時代に向かって「このように真剣に神に向かって生きることが、貧しい人々、抑圧された人々を究極の関心として生きることであることを語り、このように生きない教会が地獄の火に焼き尽くされる」66ことを時代を超えて語っているのだ。又,彼の祈りは人々を非常にアクティブにするものであった。ウェスレーは祈りも恵みの手段の1つとして入れており,祈りながら聖書を読むという独特の読み方を展開する。彼の聖化もそのような彼の体験から生み出されたものであった。野外説教のケリュグマと社会のオイクメネの中にメソディスト神学は作り上げられ,メソディストの弟子としての訓練がその正当性を高らかに鳴りわたらしているのである。67 今日においてはキリスト者の社会的責任がもう一度問われなければいけない時期に来ている。そのような中にあって、ウェスレー神学は自分達の生きている社会を福音を土台として聖化していくというところまで発展していく内容を持った社会的責任を私たちに提示している。今日社会は病んでいる。社会的聖化を今日ほど必要としている時代はかってなかったのである。
  以上ウェスレーの聖化概念を考察してきたが、ウェスレーの意味する聖化概念がいかに幅広いものであったかが解る。我々はこの遺産を受け継ぐものとして、もう一度ウェスレーのめざした聖化を追い求めようではないか。そしてこの遺産を次の世代に正しく伝えていこうではないか。それが私たちの責任である。
 最後にウェスレーの記念すべき言葉を残してこの論文を終わることにする。
 「兄弟よ,この為に我々は呼び出されたのではないか。そしてなぜ(私はまだ足りないとは言はない。しかしなぜという)私たちはまだ獲得できないでいることに満足しているのだろうか。私たちが召しだされたものよりも低い段階に沈んでいる必要性がこれ以上あるだろうか。...なぜあなたは人々があなたの前で輝かせたように燃え輝く光ではないのか。あなたは燃える愛,同じ輝くきよさにあずかろうとは思わないか。かならず思うはずだ。私たちの上に与えられるのは大きな恵みであることに敏感になるはずだ。..主が生きるように,あなたも獲得できる。...確実に我々の偉大な牧者と我々の群れは彼の意志を為すために各々のよき業において私たちを完全にし,彼の目にかなうものである。これが私の祈りである。
           共通の主にあるあなたの兄弟であり僕であるジョン・ウェスレー
 1756年2月6日 ロンドンにて68
 
  
*1John Wesley,The letter of Rev.John Wesley, A.M.,edited by John Telford,
(8 volumes), London, The Epworth Press,1931,VIII,p.23. 以下Lettersと表示
 
*2 3rd edition edited by Thomas Jackson, The Works of the Rev.John Wesley, A.M. , (14 volumes), Kansas City: Nazarene Publishing House (Reprint of the authorized set printed by the Wesleyan Conference Office, 1872), VIII, pp.328-329. (以下Worksと記載)
*3 Letters VIII,p.23.彼は説教の中で「全き聖化,キリスト者の完全は純粋な愛そのものである。純粋な愛とは罪を取り除き、心と人生を支配する愛そのものである。それは罪を取り除く愛であり、心を満たす愛であり、魂の全ての受容力を取り上げることである。愛がすべての心を保護する限り、罪へのどのような余地があるだろうか」と語る。
*4 ジョン・ウェスレー,『キリスト者の完全』,日本ウェスレー出版協会,1963年,
186頁。
*5 Works,Volume XIV,p.305.
*6 Works,Volume VIII,p.239.
*7 清水光雄,『ウェスレーと宗教思想』,日本基督教団出版局,1992年,126頁。
*8 Theodore Runyon,“Wesley and the theology of liberation”,Sanctification and Liberation edited by Theodore Runyon, Abington Press 1989,p.34.
*9 John Wesley, The Works of John Wesley,edited by Albert C.Outler,Abington
Press,Nashville,1986.Volume2,p.198.(以下Works(Bicentenial)と表示)
*10 Thomas W. Madoron, “John Wesley on Economoics",Sanctification and
Liberation edited by Theodore Runyon, Abington Press 1989, p.102.
2 これに関して山中弘氏は著書『イギリス・メソディズム研究』ヨルダン社1990年の中の28頁,34-35頁,25-36頁の中で以下のように語る。「産業革命は、こうした既存の社会・意味秩序を根本的に変容させた。経済的変動は伝統的な村落共同体の解体をもたらすとともに、都市化は国教会の教区組織を有名無実なものにした。それは国教会の宗教世界の自明性を支えていた社会構造を大きく動揺させ、新しい宗教集団が成立している社会・宗教的状況を用意した」ここにメソディズムが起こる可能性が起きてきたのである。具体的には「産業革命は農村内の家内工業を活発にし、農民を土地から引き離すとともに、彼らを農村共同体の規範から商、工業的な利害関係の中へますますまきこむことになった」続けて「産業革命の進展は、国教会の組織の弱体な地域へと多くの人
を流入させると共に、国教会の宗教支配の鍵であった地主層の影響力から、直接的或いは潜在的に自立した人々を生みだしてゆく」とした。
*11トレヴェリアン、『イギリス社会史』、みすず書房、1983年、292頁。
*12同書、297頁。
*13 Works(Bicentenial),Volume1,pp.92-93.
*14 Ibid.
*15 Works(Bicentenial),Volume3,p.520.
*16 Works(Bicentenial),Volume1, Sermon “Sermons on the Mount Discourse VIII”
*17 Works(Bicentenial),Volume1,p.517.
*18 Thomas W.Madron,“John Wesley on Economics”, Sanctiifcation and Liberation
edited by Theodore Runyon, Abington Press,1989,pp.112-113
*19.Ibid.p.468.これは“The Mystery of Iniquity”の中の1節であるが、ウェスレーは教会が貧しい時には献身的であったが、富むと必ず富への愛も深まると語り警告している。
*20Outler(Bicentenial), Volume 1, p.164. Sermon “Spiritual Christianity”
*21Theodore W. Jennings, Jr., Goodnews to the poor -John Wesley's Evangelical Economics, Abington Press 1990, p.15.ジェニングスはこれらを引用しながら以下のように語る。「ウェスレーは変容を福音という基礎の元に眺めた。・・この経済は福音的な経済理論である。というのは世界的な経済関係の流行する理論や実践の基礎として福音を強調するからである」
*22Madron, op.cit., pp.107-110.
*23Jennings,op.cit., p.43.
*24Ibid, Volume 1, pp.164-180. “Spiritual Christianity”やチャールズ・ウェスレーも讃美歌である'Primitive Christianity' を残したりしている。その中の1節は「彼らは心と魂が一致していた。そして愛のみが全体を支配していた」とする。
32山中,前掲書,55頁。
33同書,42頁。
34同書,41頁。
35Jennings, pp.82-88.がこれに関しては詳しく述べている。
36Ibid.p.84.
37Letters, Volume8, p.265.
38Jounal,Volume 8, p.128.彼は度々伝記を読むのを好んだらしいが、彼のこのような興味をアメリカのジョージアでのインディアン伝道に基礎をおいた可能性も存在する。
39これに関しての書物はJennings, op.cit., pp.47-69を参照されたし
40Maruquardt, op.cit., pp.51-55. 彼はウェスレーが出版技術の発展をうまく利用したと語る。
41Letters, Volume2,pp.158-170.
42Letters, Volume2, p.160.
43角山 栄,『茶の世界史』,中央公論社版,1980年,59-62頁。
44Letters, Volume1,p.113.
45Letters, Volume9,p.108.
46John Wesley, Letters Volue2,p.305f, Journal Volume3,p.301.
47トレヴェリアン,前掲書,273頁。
48同書,283頁。
49同書,301頁。
50Rupert E. Davies, “Justification, Sanctification and the Liberation of the Person”in Sanctification and Liberation, edited by Thodore Runyon, Abington Press ,1981,p.55.
51Joseh Miguez Bonino,“ Wesley's doctrine of Sanctification from a Liberationist Perspective”, Sanctification and Liberation, edited by Theodore Runyon, Abington
Press, 1981,p.55. 彼はウェスレーの弱さとして人間論が個人主義的過ぎるとし,最終的に救われるのは社会ではなく個人に過ぎないとする。救いの秩序の中にはめ込まれているとする。更にキリストの人間性がこの世において具体的な現実であることが欠けており,預言者としてのキリストのみが強調されているとする。そして最終的にメソディズムは階級の状況の現実性を露呈することは出来ず,彼らの社会での役割を受け入れるように導き,支配していた規則自体に挑戦することなくそのことを為したに過ぎないとする。
52Marquardt, op.cit.,pp.135-138.
53Cragg, op.cit., p.14.
54Letters Volume7,p.305. この手紙で自分はトーリー派とウェスレーは断言する。マッカートは彼のトーリーであった理由を3つ挙げる。1.民間の権威は神から与えられるもの。君主制は存在する政治形態の中で最もよいもの。2.王以外の人々が政治能力があるという事に対する疑い。王はこの点大丈夫。3.英国には政治的不満足は存在していなかった。人々は自由を保証されていたので既存の体制に反対することはなかった。Maruquart op. cit., pp.125-126.
55Works(Outler),Volume11,pp.45-93. 更にFarther Appealでも続けて語る。
56Jennings, pp.199-222.を参照せよ。
57Journal, Volume 1,p.212,pp.436-441,p.453,p.503等を見よ。この中にはウェスレ-がスペインと結託しているというような中傷も含まれている。
58Journal, Volume2,p.207.
59Works, Volume 11, pp.81-90, “A Calm Address to our American Colonies”
60Ibid, pp.119-128, “A seasonable address to the more serious part of the inhabitants of Great Britain”
61Jennings, op.cit., p.219.
62John Wesley, Letters, October 10, 1735.
63Journal, Volume 1,p.352.特にこの日記の中で彼はニグロという言葉を使用している。
64Jennigns, p.196. ジェニングスは以下のように語る。「もし野心と貪欲が我々の生活から根こそぎにされなければ、構造的変化は単なる個人の変化や社会経済学的ピラミッドの中で同じ古い地位を独占している人々のイデオロギーになってしまう」
65清水光雄,前掲書,341頁。 清水は最終的にウェスレーの中には矛盾があるとし,「時間の秩序」と「思考の秩序」との関係を不可逆として後者を究極的現実としたとし,そこにおいて彼の中に共存思想がありながら,それが最終的に結実していない。むしろ「時間の秩序」を究極的現実とする中で「思考の秩序」の現実理解が生じるとしたならば,「時間の秩序」を根拠づけることができたとする。
66Works(Outler), Volume 1, p.616. Sermon, “Sermon on the Mount”
67David Lowes Watson , in , Aldersgate Reconsidered, edited by Randy L. Maddox, Abington Press, 1990,p.36.
68Outler, op.cit.,pp21-22. Letter of 1656.2.6.

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