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  青山学院大学140周年記念講演

   ウェスレーにおける共同体的恵みの手段の役割

          聖餐と礼拝を中心にして

                     日本ナザレン教団小岩教会牧師 坂本 誠

 

  ウェスレーの魅力 包括性、バランス

   ウェスレー神学の一番の魅力は神学の包括性、バランスだと考える。ウェスレーにとっては、信仰と行い、神の主権による救いと人間の応答などが実に両立するものとして捉えられている。ウェスレーの実践神学は聖書、伝統、理性、経験という四つの支柱に基礎をおいて、メソジスト運動を形成したことにもあらわれている。。ウェスレーが物事を判断していく順序は以下のようなものであった。

①聖書が自分の行動を承認しているかどうかを問う。

②初代教会の精神や使徒的伝承、英国教会の伝統を正統的に継承しているかどうかを問う。

③これまで経験してきた神によって導かれた経験と比較して、現在経験している事柄が有効であるかどうかを理性的に考察する。以上の要素がすべて合格ならば彼は一度それを実験的に試してみる。

④そして、それが確認され、御心にかなった結実をもたらすことが経験的に体得できれば、どのような迫害があっても実行する。

 このようにいくつかの認識上の関門を経ながら決断する彼の行動は理性的で冷静であると同時に現実に即した判断となる。聖書を中心としつつ、伝統、理性を最後の経験(experience)において実験的(experimental)に検証(experiment)するというものである。ウェスレー神学のダイナミックさはこの四番目の支柱である経験にあると言っても過言ではない。経験は聖書、伝統、理性的承認を「生きた信仰」(主教クランマーからウェスレーが得たもの)にする重要な要素なのである。ここにウェスレーの実践性、経験性を見ることができよう。

 

 私は平易な真理を一般的な人々にもたらそうと計画する。その目的の為に、私はすべての慎重を要する、哲学的な思索やこみいった複雑で難解な理由づけを断ち、できる限り、原典より引用する以外は,学びのショーをも避ける。[1]

 

これは以下のアングリカンの伝統とも一致する。

 

神学は神の知識というよりも神の生そのものなのである。天においては、我々は最初に見る、そして愛する、しかし地上では我々は最初に愛さなければならない、そして我々は知覚し、理解する。[2]

 

 神学は経験的に神の生を生きることとして展開されているのである。このことはウェスレーが聖化の本質を「自分のすべてを通して神を愛すること、「自分を愛するように隣人を愛すること」とした事とも関連している。

 

ウェスレーの実践神学

ウェスレーのディヴィニティの意図が描かれている。ウェスレーのめざすところは、まさに「一般的な人々にもたらす事、その為に手頃にする事」であった。Plain Trugth for Plain People (明快な真理を一般の人々に)

ロバート・クッシュマン John Wesley's Practical Divinity(ウェスレーの実践神学)

「17世紀におけるディヴィニティーの用語は神についての合理的な説明である神学とは異なる。むしろディヴィニティーは聖霊の啓発し回心させる業による救い主なるイエス・キリストの自己啓示を意味する。それ故に16~17世紀のディヴィニティーの使用法は人間の救いの方法や本質、福音を研究する神の救いの三位一体的教理である」[3]

ウェスレーは救いを様々な方法で表現している。「生きた信仰」、「聖書的救いの方法」、「内的宗教」、「神の生」これらは密接につながっている。ウェスレーのめざしていたディヴィニティーは、客観的に神を観察するという神を語る(theos-logos)という主観-客観構造に基づいたものではない。むしろ神の救いが人間を変容し、刷新していくという既に人間が神の恵みの中に存在している主観-客観構造を超えたところに存在する「生きた信仰」の総体を神学(divinity)と呼んだ。

 

ウェスレーの関心事 私は、真の聖書的、実験的宗教を描くことに努力してきた。

•①今顔を天に向け始めている人々を、この世界から心の宗教をほとんど抹殺しかけたような形式主義・単なる外側だけの宗教から守ること 魂の内でキリストを体験する為に

•②心の宗教、愛によって働く信仰を知っている人々が、いつの間にかこの信仰によって律法をむなしくしないように、悪魔の罠に陥ることのないように警戒させること

•生ける信仰によって神の愛に応答し、神と人への愛に生き、世にあって御心を実現させていく。

•ウェスレーの救済論は、恵みの故に(by grace)信仰によって(through faith)、神があらかじめ備えてくださった良い行いに歩むように(unto good Works)すること

 

聖書的救いの方法 救済論的展開

聖書的救いの方法とは、救いの順序(Order of Salvation)に則したクリスチャン信仰の成長の全体的プロセスを指す。そこには信仰と業、儀式的な形式主義と儀式にこだわらない福音的に自由なスピリチュアリティーという相反するものが包括的に捉えられ展開されている。それは聖書的救いの方法(私は一つの事、天国に至る方法、いかに幸福な彼岸に到達するかを知りたい。神はその方法を教えてくださる。この目的のために神は天より来られた)に、天国に至るという目標を持たせたことからも明白である。[4] この場合、天国に至る「方法」とは、天国に至る為の「様式」(mode)「方式」(fashion)を意味する。[5]これは天国に至る道程(Via Media)とも言えると考える。ここからも、ウェスレーの聖書的救いの方法が神の生を生きる、クリスチャンの生の目標でもある実践的なものである。

愛が人の心を満たす時、「キリストにある心」を持ち、聖なる気質の形成が行われる。聖なる気質は、慈愛の業によって実践されて、更に成長させられる。しかし、実践のみでは、信仰者の内にある原動力は枯渇する。そこに敬虔の業が必要となる。敬虔の業を通して、主の恵みを確認し、その結果、再び人は慈愛の業へと導かれる。その連続が聖なる気質の育成につながる。

 

公同的精神(Catholic Spirit)について

 ウェスレーのディヴィニティー理解について、もう一歩踏み込んで述べたいが、それにはウェスレーがディヴィニティーを使用する場合に、特にプラクティカル・ディヴィニティーという用語をどのような文脈で使用していたかが共同体的視点では欠かせない問題となる。

 そこで重要になってくるのが「公同的精神」(catholic spirit)という説教である。この説教はメソジスト・ソサエティー運動が次第に広がりを見せた時期に語られた説教である。メソジスト・ソサエティーの運動原則は「来るべき御怒りを避け、罪から救われたいという願望を持っていること」であった。[6]ウェスレーは以下のように語る。

 

礼拝様式における様々な相違は全体的外的な一致を妨げるかもしれないが、それは感情をも妨げるのであろうか。意見が一致していないにもかかわらず心が1つにはなれないのだろうか。それ故、賢い人はその人が望むことを思考する自由を他の人にも許可するだろう。人は自分と異なる意見を持った人を受け入れ、愛において1つとなりたいと望む人にただ1つの質問のみをする。「あなたの心は私の心があなたと共にあるように適切ですか。[7]

 

ここには、公同的な精神に立つエキュメニカルな視点が見られ、ウェスレーの幅の広さを見ることができる。実際、ウェスレーの組織したメソジストソサエティーには他教派の人々も含まれていた。しかしこれはどのような立場でもいいというのではない。

 

第一に公同的精神とはの広教会主義(speculative latitudinarinism)とは異なる。それはあらゆる意見に対しての無頓着であって、地獄の産物であって、天の産物ではない。……第二に、公同的精神が、どんな種類のの広教会主義(practical latitudinarinism)でないことを学ぶ。それは公同の礼拝について、あるいは、礼拝の外的な形式について、無頓着ではない。この無頓着も、祝福でなく呪いである(筆者傍点)。[8]

 

 ウェスレーはここで、自分の立場を何の神学的な地盤を持たずにどの教理でも構わないという者とは違うという宣言をする。ウェスレーが意識していたものは、英国教会に固有な神学と実践の包括性というものであり、何の教理にもコミットしない無節操を批判している。また第2に実践的であっても基本に無頓着な人々とも異なる。礼拝様式等は祈祷書にあるように厳粛なものとして受け取りつつ、実践していくのであり、ウェスレーには礼拝様式においてこだわりがあるのである。むしろ重要であったのは、自分の立場がラティテゥーディナリアンではないと確認した上で、自分の本来あるべき精神を説明したのである。その精神とは何か。ウェスレーは様々な事柄を本質と意見とに分ける。ここでウェスレーが問題にしているのは、意見の部分において異なっていても、愛をもって互いに協力していく姿勢なのである。まさに共同体的知がここには存在する。つまり、神学と実践の包括性、そこから生み出されるスピリチュアリティーをウェスレーは重要視していたのではないだろうか。これが、ウェスレーの言う、聖書的救いの方法、プラクティカル・ディヴィニティーであった。ウェスレーを思索的、実践的な勝手気儘主義から区別したものこそ、彼の高教会主義的こだわりであり、無秩序な、また実体のない原則ではなく、実践的で且つ影響力のある方法化、規則化を強調した包括性がウェスレーのディヴィニティーを魅力あるものとしているのではないだろうか。英国教会に忠実なハイチャーチマンが、イギリスで最大の非国教派の指導者になったことは最大のパラドックスであるが、この伝統と実践の包括性の追求こそが、ウェスレーのプラクティカルディヴィニティーを解く鍵であると信じる。

 

ウェスレーの3つの目標 魂の救い、聖化(心と生活のホーリネス)、人々の生活の中における正義の確立

①魂の救いは、ウェスレーの永遠の目標であり、彼がアメリカに行く動機も「自分の魂を救う為」であり、自分の救いが確かなものになることはウェスレーのディヴィニティの中心であった。

②心と生活のホーリネス 聖化の道は、心のホーリネスのみならず、それが生活に展開されていくかという点まで含めた全体的な刷新がウェスレーの求めていたものであった。

③その歩みが結果的に、人々の生活の中における正義の確立につながっていく

 

 ウェスレーの恵みの手段の出発点 ホーリークラブ

 ウェスレーの初期の活動ホーリークラブには4つの活動があった。オックスフォードの牢獄訪問、貧しい家族の訪問、救貧院の訪問、恵まれない子ども達の学校の為の奉仕等である。そのような具体的行動の背後には法則化、規則化が存在した。それらの方法は(1)すべての人にできるかぎり善を行うこと、(2)機会のあるかぎりできるだけ聖餐を受けること、(3)国教会の断食日を厳守することであった。そこにあるものは慈善という考え方であり、聖餐と断食の必要性であった。ウェスレーは岸田が言うように、「祈り、断食、慈善」という高教会的な三種の「よきわざ」の「方法」化、「規則」化によって、「聖潔な生活」を組織し、「審判日」における「永遠の救い」への道である「キリスト者の完全」の「完全な愛」を追及したのである。[9]  ウェスレーには大きく分けて2つの恵みの手段が存在する。

 

 

神によって設立された恵みの手段        一般的な規則 思慮深い恵みの手段

   守るべきもの                 状況に合わせて応用可能

 祈祷                      聖なる生活のための特別な規則や行為

  聖書探求                   神の儀式への参加(礼典、典礼、学び、聖書研究

 主の晩餐                    バンド集会への参加(独身者・既婚者)

 クリスチャンの集会への参加           祈祷会・契約礼拝・徹夜礼拝への参加

  (ソサエティ・クラスミーティング)        愛餐への参加

 断食                      出来る限りの善行を為すこと

                              害を与えないこと  

                          デボーションの為に古典や啓発的な信仰書を読む

 

ウェスレーは、可視的な教会の本質を①生きた信仰 ②説教 ③礼典の執行と典礼に置いた。ウェスレーは教会の一致を重要視する。ウェスレーは特にクラスの集会への参加を神によって設立された恵みの手段として奨励しつつ、この形態、構造、組織は応用可能。その為に思慮深い恵みの手段ではバンドの参加を奨励する。客観的に自分と神との関係を構築できる神によって設立された手段と共に、主観的にそれを用いる恵みの手段の強調。

メソジストソサエティは、ある形式を持ちながらも、神に従って歩み力を求める仲間であり、共に祈り、説教される御言葉を聞き、愛においてお互いを見張り、救いの達成に努める。メソジストは教会の中の小教会(ecclesiolae in ecclesia)と呼ばれたが、大きな共同体を生きた働きとする為に相互牧会を考え、恵みの手段を2つに分けた。

 もう一つウェスレーが目指したのが、垂直的な次元(神と信仰の関係)と水平的な次元(信仰者とこの世)との統合。ウェスレーの恵みの手段を考える場合に下の表は重要である。ウェスレーの恵みの手段は主に、敬虔の業、慈愛の業に分けられる。敬虔の業と慈愛の業の間に、スピリチャアルフォーメーションと題して、4つのものを置いた。これらは本来は敬虔の業にいれられるものであるが、人との関わりを持ち共同体的な視点が欠かせないものである。

 

共同体的な恵みの手段の必要性 共同体的恵みの手段  生活におけるホーリネス   クリスチャンライフサイクル

心におけるホーリネス      スピリチュアルフォーメーション      慈愛の業義務倫理       愛と気質の形成                     

    敬虔の業                                    敬虔の業

    祈祷         礼拝(説教)       病める者の訪問          ↓↑                           

 聖書を読むこと       聖餐           給食活動      共同体としての恵みの手段

    黙想         集会(バンド・クラス等) 貧しい人々の教育         ↓↑

    断食         聖なる会話       貧しい人々に与える         慈愛の業            

    日誌をつける                  シンプルライフ                

    告白                      もてなし   

    節制                      証しする   

                            刑務所への牧会                             

                              社会正義               

                                            

                                              

清水氏:ウェスレーの引用

キリスト者にとって、愛は玉座に座り、この玉座とは神と隣人を愛する愛で、人間の心全体を満たし、支配します。玉座の近隣に聖なる気質が充満し、この気質は、我慢強く、穏やか、柔和、優しく・誠実・節制的で、「イエス・キリストにある心」が形成される。この気質の外延に人間の魂と肉体に仕える憐れみの業全体が存在する。これらの業を通して私たちは聖なる気質全体を働かせ、持続的に発展させ、そ の結果、通常はそのように呼ばないが、これらの働きは真の恵みの手段となる。そして憐れみの業の外延に通常敬虔の業と呼ばれる働きがある。この働きは聖書を読み、聞き、人々の、家庭的な、また個人的な祈りを為し、聖餐を受け、断食し、節制することです。最後に憐れみの業と敬虔の業に仕える者は相互に効果的に愛、気質、良き業へと発展させることで、祝福の主は彼らを一つに、教会に結束させる。[10]

 

ウェスレーの聖礼典理解

聖礼典は、単なるキリスト者信仰のバッジや証拠ではない。それは恵みのしるし、すなわち神の我々に対する好意の

しるし(外的なしるし)であり、それによって神は目に見えない形で我々の内側に働きかけ(内的な恵み)、信仰を起こすばかりか、それを強め、確かなものとする。福音の時代に我らの主によって定められた聖礼典は二つあり、それは洗礼と聖餐である。

 

 聖餐について

 

回心の恵みの手段

ウェスレーは聖餐を名ばかりのキリスト者が真実のキリスト者になる為の回心を与える儀式としてみた。この意味において聖餐に宣教的な性質を持たせていた。ウェスレーにとって聖餐は先行する恵みを見出せなくなった者や罪が赦されたという確信を失った者が、聖餐を受けることにより回心を与えられ、信仰復活の手がかりを掴める場であった。これはウェスレーがソサエティにおいて、様々な教派の人々に聖餐を開放したこととも関連する。ウェスレーは聖餐に与る者に回心を与える機能を持たせ、宣教的要素を含ませていたと考える。

 

確信を与える恵みの手段

ウェスレーは聖餐を信仰の位置を永続的に確認する場として考えた。キリスト者は、自分の出発点を確認することにより、自己の信仰の原点である信仰義認に立ち返り、行為義認に陥るのを妨げることができる。それと同時に社会的存在として、原点を確認しつつ遣わされている場であった。社会的責任だけに集中すると、燃え尽き症候群が起こる。

この両者は、ウェスレーにおいては切り離し難い。ウェスレーの聖餐は、名目的キリスト者(Nominal Christian)が聖餐を受けることにより、もう一度信仰の道に戻り、救いの確信を持ち、真実のキリスト者(Real Christian)となって歩んでいくという側面があったのではないか。同時に神から力をいただき、信仰の刷新を与えられる確信を与える場でもあった。

 

どうして回心の恵みとしての聖餐なのか?

モラヴィア派との出会いが大きい(回心・アメリカに行く船上でのモラヴィア派の静寂主義との出会い ペーター・ベーラーとの信仰問答 救いがわかるまで説教しなさい)→アルダスゲートでの回心(1938.5.24)しかし、それですべてが解決したわけではない。回心後もウェスレーの心の中では信仰の揺れを感じていた。揺れながらも聖餐に与るウェスレー 

 

  I. 回心の恵みの手段としての聖餐

  回心を与える儀式としての聖餐を考察するにあたり、重要になってくるのは、ウェスレーのシュパンゲンブルグとの対話を始めとしたフェッターレインソサエティとの関係であった。フェッターレインソサエティはモラヴィア派のロンドンの拠点であった。モラヴィア派は、清い心を持つようになるまでは、誰も聖餐にあずかるべきではないと考えていた。これは静寂主義(救いの確信を得るまで、恵みの手段を使用せずに、神を静かに待つこと)というもの。彼らは、キリストのみを恵みの手段と考え、人は疑いの信仰を持っている場合に聖餐を受領してはならないと主張していた。

*ウェスレーは、静寂主義に反対した。恵みの手段を使用することがない人は、赦しの確信を失い、赦しを一度も得たことがないように感じてしまう。信仰に生きることなく、生涯罪人であり続ける。

 

 岩本氏の発言

  この新しい転換(モラヴィア派への興味から批判へ)を象徴するかのような出来事が1738年7月4日、マリエンブルンにて起こった。それは同行の友人インガムには許されたが、ウェスレーに倍餐が許されなかったという出来事であった。ジョンは、モラヴィア教会から「疑いを抱いているために平安がなく、休みなく揺れ動いている信仰者であって聖餐を受ける資格がない者(homo perturbatus)」として倍餐を拒否されたのである。生涯にわたって彼ほど聖餐を重視し尊重した人物も少なかった。彼には一大事だったと思われる。彼はそれを個人的な出来事と考えなかった。聖餐の卓に進み出る相手を、「疑いによって揺れ動く信仰者」と断じて、主の晩餐への倍餐を拒否するキリスト教とは一体何なのか。弱い信仰者に対してこそ、主の晩餐への招きと慰めはあるべきでないのか。あらゆる恐れ、疑いの解決の前にも「ある程度の信仰」を得ることが出来る。新しい清い心を得る前にも、神の戒め、特に聖餐を守るべきである。

 

 総括するとモラヴィア派との主な相違点は以下のとおり。

1)恵みの手段はキリストのみであり、未信者や確信のない者は恵みの手段を使用すべきではない。というモラヴィア派に対して、恵みの手段によって信仰を求めるべきこと。

2)信仰の程度の差はないというモラヴィア派に対して、弱い信仰もある。程度の差はある。

3)社会的なかかわりがあまり見られない。ウェスレーは恵みの手段が慈愛の業にも見られるように社会に貢献できるものとして考えていた。社会的な責任ある行動がウェスレーにはあったが、モラヴィア派にはなかった。

  清水氏  

モラヴィア派:疑いや恐れからも解放され、完全なる愛、喜び、平和の証を与える完全なる確証を主張。この確証を義認の条件とした。この確証を得ていない者がキリスト者であることを否定

ウェスレー: 義認の確証と義認の条件を区別した。聖霊の証と人間の証を区別し、情感的な確証を義認の条件とせず、人間の知覚する認識を人間の救いの条件からはずした。[11]

 

回心としての聖餐の証言

   母親スザンナも聖餐に与って回心を体験する。

「私の息子のホールが、イエス・キリストの体は汝のために与えられたもうと語っていた時….それらの言葉は私の心を打った。私は神がキリストの故に私の罪を赦されたということを知った。」

 ウェスレーはある女性が聖餐の場で回心した事を目撃した。

 しかし、ついに一人の女性を発見した。多くの者は(彼らの習慣に従って)彼女には信仰がないことを説得しようとしたが、彼女は彼らが抵抗できない霊によって以下のように答えた。「私が今生きている生は、私を愛し、私にご自身を与えられた神の子における信仰によって生きている。主はパンをさくことにおいて私にあらわれたその瞬間から一度も私を離れなかった。」

 

 ウェスレーはその事において以下のことを発見したと語る。

この否定できない事実から推量できるのは、信仰を持たない者も主の晩餐において信仰を受け取れるかということである。何故か。(1)恵みの手段、外的な儀式が存在する。そこにおいて神の内的な恵みが人に伝えられ、救いをもたらす信仰が、それ以前は持っていなくても与えられる。(2)この手段の1つは主の晩餐である。(3)この信仰を持たない者は、神が制定された主の晩餐または別の恵みの手段を使用しながら待つべきである。[12] (筆者傍線)

 

 (1)と(3)の証言が重要。問題となるのは「信仰を持たない者」がどのような人を指すか。

 私は以下のように信じる。それを獲得する方法はキリストを待ち、静まることである。つまりすべての恵みの手段を使用することにおいて。それ故に、私は自分に信仰(克服していく信仰 conquering faith)がないことを知っている人が教会に行くこと、聖餐を受ける権利があると信じる。

  不信仰とは信仰者でありながらも、克服する信仰を持っていない人、未だ、真実のキリスト者でない人々のことを意味した。

 

 克服する信仰がない人は日誌にもでてくる。「この罪への束縛の状態にあって、継続的に戦ってはいたが勝利を得ていない」状態を意味する。この信仰は、「勝利を得る信仰」とも訳せる。

克服していく信仰の原文には脚注があり、それは1738年5月19日の日誌を指している。ウェスレーはそこにおいて、キリスト教の適切な信仰を既に得たと思ってはならない。自分は最初、「一般的な従順、神の戒めを守る」ことにおいて救われたと信じていた。しかし、「内的な従順、ホーリネス」という概念はなかった[13] としている。「克服していく信仰」は外的な儀式を守ることによるクリスチャンの確信ではなく、内的に救いの確信に生きること、勝利を得る信仰であり、ウェスレー自身の言葉に換言すれば、「僕の信仰」ではなく「神の子の信仰」。

 

当時、多くの名目的キリスト者がいた。幼児洗礼を受けていたが、生きた信仰は持っていなかった。ある人々は教会から遠ざかっていた。ウェスレーにとって聖餐を回心の恵みの手段として定義することは重要であった。聖餐を受けることによって祝された例が多く存在した。

 

ステープルスの結論:信仰者は、聖霊の火を消して、霊的な事柄が理解できなくなることが起こりうる。重要なのは信仰の程度(Degrees of faith)の存在 どのように弱い信仰であっても、からし種の信仰さえあれば聖餐のテーブルに着くことができる。 ウェスレーは信仰を回復したいと願う全ての信仰者を聖餐に招いた。たとえ、その人が先行する恵みを失っていたとしても、からし種の信仰は取り去られておらず、主の晩餐のテーブルで、先行する恵みを再び受け取り直すことができる。[14]

 オレ・ボーゲンの結論: 信仰者は、義とし、聖化する恵みを先行する恵みを基礎に与えられている。ウェスレーは、先行する恵みが聖餐によって与えられるとし、聖餐を回心の恵みの手段として捉えた。このことによりウェスレーは新しい段階へと踏み出す。[15]

 

ウェスレーの子ども時代      ウェスレーは幼少時から聖餐に与っていた

ウェスレーの父サムエルが大主教区会議から戻ってきた時に、ジョン・ウェスレーはまだジャッキーと呼ばれていた時期であり、はしかから解放されたのであるが、父はジャッキーが確信をもって成熟しつつあり、合理的な信仰と霊的な献身を発見して、聖餐を受けることを許可することに何の躊躇もなかった。当時ジョンは9歳であったが、通常は16歳にならないとだめであった。[16]

 

2 確信を与える恵みの手段としての聖餐

  ウェスレーの聖餐は、聖化につながる。神の像を回復し、堕罪において傷ついた人間の本性を癒し、回復する為に、常に最初の愛に立ち返る場であった。また神の恵みを確認して、社会的責任を果たしていく媒介としての場であった。

 

聖餐の結論

私たちはこの聖餐のテーブルに自分の義を信じて厚かましくも聖餐にあずかりに来ている者ではありません。ここに来ることができるのはただあなたの多くのそして偉大な恵みによるのです。[17]

 

聖餐のテーブルとは、メソジストのテーブルのみではなく、主のテーブルを意味する。そこでは主に会うことが起こるのである。メソジストの信仰者以外にも主のテーブルは開かれている。ウェスレーの廻りには恵みの手段を否定するモラヴィア派の人々、自分は聖餐にあずかるほど不敬虔でないと良心の呵責を無視するピューリタン系の人々、国教会の形式的な礼拝よりもメソジストのソサエティや交わりを好む人々がいた。[18] そしてこれらの人々に付け加えて、英国教会内の同胞者たちが存在した。ウェスレーの聖餐論は、英国教会を愛してやまないウェスレーの英国教会へのメッセージなのである。年に数回しか行われない聖餐式を恵みの手段として捉え直し、積極的に用いたウェスレーの功績は大きい。聖餐を受ける機会は過去の「ただ単なる思い出」ではなく、現在も継続しているキリストの恵みに与る招きであり、「恵みと憐れみは、私達に最初に与えられた時と同じように今も続いており、新しく、同じである」ことを受け取る。

 ラッテンベリーは、聖餐は聖餐受領者に福音を宣言しているのであるとし、ウェスレーの改革が礼典的・福音的改革の統合であったと語る。[19] チルコートもウェスレー神学を「福音的」(神の恵みの言葉の再発見)と「聖餐的なもの」(その恵みを経験する為の聖餐の礼典の再発見)の統合においてリヴァイヴァルが広がったとする。[20] しかし、もう一歩進めてウェスレーは礼典を福音そのものとして見ていたとも言える。

 ウェスレーにとって聖餐は自分の立ち位置を確認する場として高教会主義的影響の基にウェスレー自身に染みついていたものであり、それを媒介として、心が生活につながるディヴィニティーが展開されていた。それが結果的には聖化につながっていたのである。そのことはウェスレーが3、4日に1度の割合で聖餐に与っていたことにも現れている。神への讃美が起こり、キリストの御言葉が語られ、エピクレーシスの祈りの中で聖餐が行われる、この三位一体の神の具現がウェスレーのディヴィニティーを形成したと言っても過言ではないであろう。特に聖餐式は何千人もの人々が受けるのであるから、そこから発出するエネルギーが理解できると思う。クッシュマンの言う「人間の救いの方法や本質、福音に注目する神の救いの三位一体的教理」というディヴィニティーの実現がここに存在する。聖餐において養われた者が、恵みを携えてこの世に遣わされていく。聖餐のパンとぶどう酒は教会と世界、実存的聖化と社会的な聖化を結ぶものだったのではないだろうか。聖餐には高教会主義的立場を保持しながらも実践的に展開されたプラクティカル・ディヴィニティーが存在する。ウェスレーの運動は、英国教会の形式主義と熱狂主義の間をいく英国教会の改革運動であった。ウェスレーはそのことにより国家をも改革しようとした。この聖餐こそ、ウェスレーの運動を形式主義と熱狂主義から守ったものであり、プラクティカルディヴィニティーが具現しているものではないだろうか

 

礼拝について

 メソジスト礼拝の本質

何がウェスレー兄弟及びメソジスト礼拝の本質なのであろうか。メソジストの神学者ホートン・デービスによれば、メソジストの特徴は、「典礼の形式を伴った自由祈祷」であると語っている。[21] この言葉は重要な事を語っている。典礼の形式とは英国教会の礼拝形式に基礎を置いていることを意味する。しかし、それだけにとどまらず、自由祈祷が彼らの礼拝に存在していた。これは、式文によらない、即興の祈り。

ウェスレーによる礼拝の6つの特色

 ウェスレーの目指していたものは、真実の宗教であり、神の像への魂の更新、キリストのように変えられていく聖化。真実のキリスト者になる為に、礼拝形式は重要であるが、礼拝参加はそれを獲得する手段であった。ウェスレー自身の手紙によればメソジスト礼拝の特徴は6つに分けることができる。

①優雅すぎるのでもなく、激しすぎるのでもない質素でひたむきな礼拝

②礼拝者の社会的な均質性また誠実である事

③神に向かって礼拝を行っているという厳粛さと統一性

④賛美 讃美歌を歌うことによる感性と詩の絶妙な組み合わせ及び演奏による活気に満ちた雰囲気

⑤説教 自己の教理に彩りを与える生活を送る人物による現在の救いの福音の明解で正直な宣言

⑥聖餐 ふさわしい牧者によって聖徒に対して執行される聖餐[22]

 以上からウェスレーの目指した礼拝が、質素であるが、荘厳さをもった礼拝であることが理解できる。メソジストは讃美を経験を経た理解をもって心から歌うことができた。メソジストは讃美する時に起立して歌われた。司式者も全体のプログラムにおける讃美の力を理解していた。説教は信仰による義認と内的ホーリネス、それが信仰者の外側に溢れでるホーリネスが説かれた。聖餐は讃美歌と共に守られた。この組み合わせもウェスレー兄弟の礼拝に絶妙な霊的雰囲気をかもしだした。まさに従順さの必要性、啓発が礼拝において行われていた。それが信仰とホーリネスと愛がメソジストの性格となって生活にあらわれていた。日毎の罪に打ち勝つ勝利の響きが礼拝において実現していたのである。

 

特徴的な自由祈祷の重要性

ウェスレーは、説教の前後、即興の祈祷を行った。即興の祈祷は私的な会合には特に適切であると感じていたが、公的礼拝に使用するには躊躇していた。しかし、ジョンの日記を見ると、様々な祈祷形式を用いている様子がわかる。メソジストの夕方の集会では特祷を使用した。さらに、連祷を水曜日、金曜日に使用した。金曜日は断食日でもあった。他の曜日には即興の祈祷を用いている。

 デービスは定型の祈祷は一致と普遍性の為に、自由祈祷は単純さと自然発生的な導きに重要であると語っている。[23] とりなしの祈りもその中で行われていた。祈りの対象は国家自体の為、両親の為、家族の為、ソサエティの為であった。[24] ウェスレーがこの形式と自由さの両面を絶妙に組み合わせていたことにウェスレーの礼拝観の魅力があるのではないかと思う。

 

ウェスレー兄弟の特別な礼拝要素

 ウェスレー兄弟にとって、最も特徴的な2つの要素を次にみていきたい。兄ジョンの野外説教と弟チャールズの讃美歌。

 ①野外説教

 ジョンは、英国教会の伝統で育ったので、教会堂内でのみ説教は行われるべきであると考えていた。ジョンにとって野外で説教することは挑戦的な事であった。最初は、戸惑ったウェスレーであったが、次第に慣れ、この新しい方法を用いて礼拝を行うようになっていく。そこには、炭坑労働者をはじめ、様々な人々が集まって礼拝が守られる。ウェスレーはブリストルで野外説教を始めるが、一人の魂をどこまでも追い、救いをもたらすことが何にもまして優先したウェスレーの実践性を見る思いがする。ウェスレーを最初に野外説教に誘ったのは、ジョージ・ホイットフィールド。ウェスレーは、英国教会の礼拝所のない工業都市を選んで貧しい聴衆に説教した。

 ②讃美歌

 チャールズは多くの作詞をしているが、彼の讃美歌はメソジストの礼拝にとって欠くことのできないものであった。チャールズの作詞の基本は「平易な言葉で一般の人々に理解できる」ということであった。それを当時の流行歌につけて歌った。この讃美歌は大きな役割を果たすようになった。青山学院のチャイムも兄サムエル・ウェスレーの讃美歌が使用されている。野外で皆が心を合わせて一つになって讃美歌を歌うこともメソジストリヴァイヴァルの原点であったた。 讃美歌の大切なところは神学的・教理的な面を讃美すること。つまり、讃美歌は教育的な要素を持っていた。更に、讃美歌は感情豊かな温かさを人々にもたらした。また聖歌隊の讃美は当時も一般的であったのあるが、会衆讃美によって礼拝出席者が、自分も礼拝に参加しているという帰属感を感じることができた。その意味でメソジストの讃美歌集は、実践的、教理的な意味合いをもたらしている。讃美することにおいて自己の信仰が問われ、自己の信仰を刷新しつつ、聖化の道を歩む人々を力づけ、信仰に火を灯し、献身の思いを新たにする。実践的な神学を讃美することによって愛に満ちた真実のクリスチャン生活が体験できた。

 チャールズは、貪欲に讃美することを強調した。ただし、大声でどなるように賛美するのではなく会衆と合わせて慎み深く讃美するように勧めます。ゆっくりになりすぎることなくリズムに合わせて讃美する。ウェスレーの死後、オルガンと共に讃美することが許可された。

   砂のロープをつむぐ:

御言葉と礼典を紡ぐことを強調した。それは、アメリカにおいても、日本の文脈においても、回心を与える恵みの手段と確信を与える恵みの手段を切り離すのでなく、信仰者に対する宣教のわざとして、共に提示することではないだろうか。

 

[1] The Works of the Rev. John Wesley, A.M. 3rd edition ed. by Thomas Jackson(14 volumes), (Kansas City: Nazarene Publishing House),(以下Worksと表示),p.6.

[2] Stephen Sykes and John Booty, The Study of Anglicanism,  SPCK (Society for Promoting Christian Knowledge) (1998/7/30),pp.116-117. これはジェレミー・テイラーの提案した神学として解説されたもの。

[3] Robert Cushman, John Wesley's Pactivical Divinity,  -Studies in Methodist Doctrinal Standards-, Kingswood Books, 1989.

[4] Kenneth J Collins, The Scripture way of salvation-The Heart of John Wesley's Theology, (Abingdon Press, 1997), pp13-17.

[5] Ibid., p.13.

[6] Works, VIII, p.270.

[7] The Works of John Wesley, Edited by Albert C. Outler, Nashville: (Abingdon Press, 1984). Vol2, pp.86-87. (以下BE Worksと表記)

[8] BE Works, pp.92-93.

[9] 岸田紀『ジョン・ウェズリ』、ミルネヴァ書房、昭和52年、314~15頁。

[10] BE Works 3:313. 訳は清水光雄、『ウェスレーをめぐって -野呂芳男との対話-』、209頁より抜粋

[11]清水光雄、『ウェスレーをめぐって 野呂芳男との対話』、2014年、教文館、224頁。

[12] 日誌1739.11.7.

[13] 日誌1738.5.19. ウェスレーは父にさらに光を願うなら、主は更に光りを与えられるとしている。

[14] Rob Staples, Outward sign and Inward grace- The place of sacraments in Wesleyan Spirituality, Kansas City: Beacon Hill Press, 1991.

[15] Ole E Borgen, John Wesley on the Sacraments -A Definitive Study of John Wesley’s Theology of Worship -, (Francis Asbury Press, 1972).

[16] Frank Baker, John Wesley and Church of England, (Epworth Press, 1970), p.9 父は1712年7月15日にリンカーンの主教であったウィリアム・ウェークがエプワースの教区教会で800人に按手した中の一人であった。

[17] 手紙1767.3.5 To the Editor of Lloyd's Evening Post.

[18]  藤本 満、『ウェスレーの神学』、366頁。

[19] Ernest Rattenbury, The Eucharistic Hymns of John and Charles Wesley, (OSL Publications, 1990), pp.146-154. 聖餐は、人の五感に訴えながら、感覚的な方法で福音を宣言しているのである。

[20] Paul Chilcote, Wesleyan Tradition, A Paradigm for Renewal, (Abingdon Press 2002), p.33.

[21] Davis Horton, Worship and Theology in England, From Watts and Wesley to Mariteau, 1690-1900. (Eerdman, 1996), p.184.

[22] F.C.Gill, Selected Letters of John Wesley, pp.103-104.

[23] Davis. op.cit., p.194.

[24] Davis, op.cit., p.202.

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